今日の1枚① 「北欧選手権1997」

今日の1枚は、1997年のワールドゲームズに参加した際に、おまけで出場した、北欧選手権のことです。ワールドゲームズはフィンランドで行われたのですが、種目数が確か1-5種と少なかったため、せっかくだから、と翌週の大会にも出場してきました。参加者は、芦田さんと岡本×2。夫婦で出場したのでした(今や昔、ですが)
この写真は、当時はまだICFの会長になっていなかった、スウェーデンのUlf Jansonが1種をしているところです。座っているのがHenrik Osterberg、腕を組んでるのが、Hakenだったかと(Facebookにも同じ写真を載せたら、タグをつけてくれていましたので、ご参照ください)。
1994年の大会に久しぶりに日本から選手が参加し、ICFの仲間入りの再スタートを切ったところから、Ulfとの付き合いは始まりました。当時は事務局長(日本でいうと、湯川さん的存在)をしていたのですが、空白の数年間の間に変わってしまっていたルールやプラグのことなど、丁寧に教えてくれました。また、丁度その頃から一般的になたパソコン通信の電子メールサービスもいち早く使い始め、1997年の大会への参加、そして2001年のワールドゲームズ秋田大会に向けた準備などで、より深い付き合いが始まるのでした。
WG秋田大会の準備などで何度も来日したUlfですが、実際に一緒に競技に参加したのは、実はこの大会だけです。すでに一線を退き、Henrikたち若手に任せていたところもあったようですが、いやはや、昔取った杵柄、とはよく言ったもので、当時我々は全く刃が立たなかったことを覚えています。8種も確か95点でぶっちぎってたのでは(ウロオボエデスガ)。1こ外した、とすごく悔しがっていたのを覚えてます。それもそのはず、昔の記録表をみると、一昔前にかなりブイブイ言わせてたみたいでしたので。
2001年のWG秋田大会では、自分は、選手でも参加しつつ、TD、例えるなら現場監督、みたいな立場で、競技側と運営側の橋渡し役、の両方やっていました。日本で初めての世界大会の開催、といったプレッシャーだけでなく、キャスティング競技をサポートしてくれた秋田の地元のボランティアの方々、運営事務局側の皆さん、との連絡の窓口をやらされたり、台風の直撃を受けて3日間の予定を急遽2日間に変更する調整をさせられたり、キャスティングの前の日程だったフライングディスクから『もらった』バナナがなくなったら「なんでキャスティングには無いんだ!」と調達を迫られたり(しませんでしたが)、などなど、何かあれば大声で「Kenji~~~」と呼ばれ、てんてこ舞いだったことを、いまでも覚えています。
そうそう、そんなにバタバタしていたにも関わらず、ドーピングコントロールになぜか自分が引っかかり、南アフリカからきたHennieと一緒に「なんで俺らなんだ?」と首をかしげながら、オシッコの順番をまっていたのでした。1日目が台風でキャンセルになったときの午後早い時間、これからリスケの調整をしようとしていた矢先だったかと思います…。
そんな、人使いの荒い会長でしたが、それがあったが故に、秋田WG大会は大成功のうちに終えられたと思っています。大会終了後のバンケットのときに、スピーチするときのことを、大会期間中から実はずっと考えていて、言いたいことは沢山あったのですが、自分の英語力とも相談をし、「この大会はいろいろな意味で日本で初めての大会になりました。初めての世界大会、初めての秋田での開催、そして初めての大会初日のキャンセルなどなど。終わってしまえばそれもいい思い出です。特に台風は印象的でした。日本では通常、アメリカなどのように台風には名前を付けず、番号で読んでいます。しかし、今回の台風はあえて名前を付けたいと思います『Ulf台風』と」と、まとめたのでした。
スピーチを終えて一頻り、「Kenjiコール」と拍手喝采をいただき、次にUlfのスピーチにつながるはずだったところを、アメリカのクリス・コリッチがマイクを奪ってしまって、出遅れたUlf。2番手でのスピーチを終えたところで目が合いました。なんか言われるな、と覚悟していたら「Ulf 台風、いい名前じゃないか」とウィンクしながら言われ、手にしていたウォッカだったか何かを差し出されてお互いにイッキで乾杯した時に、終わったんだなぁ、と実感したのでした。
そんなUlfが病に倒れたのは、2005年のWGドイツ大会の後。朽木での接戦の末、代表権を逃してしまったので、Thomas MaireがTDを努めたドイツ大会に、コーチとして行こう予定していたのですが、長男の入院で急遽キャンセルしたのですが、大会の写真をみて驚きました。ぽってりしていたお腹がペタンコになっていて顔もげっそりと。すぐさま「どうしたの?」とメールをしたのですが、ちょっと入院しててね、と、確か返事をもらったのが、暫くたってからで、しかもそれが確か最後のメールだったかと。
訃報を受けたのも、メールででした。ガンだったそうです。
Ulf亡き後のICSFは、いろいろと変化がありました。そのことについては、別の投稿で詳しくまとめたいと思います。
しかし、方向性は何ら変わっていません。キャスティングが好きな面々が、公平なルールにもとづいて互いに競い合いながら代表権をとり、世界選手権に参加する、勝利を勝ち取る、負けるときは負ける、普遍のルールで当たり前のように続けられています。
日本のキャスティングは、Ulfの掛け声で飛躍的に技術が向上したといっても過言ではないと思うのです。WGには選手だけでなく、多くのメンバーが、審判として参加していました。そこで経験したことや審判の間にも見ることができたトップクラスの選手の試技は、その後のスキルアップに大いに役立ったことでしょう。いまでもその時の映像は、Youtubeで見ることができます(マサミさん、ありがとう)。
キャスティング競技を真剣にオリンピック種目にしたいと願っていたUlf、そして日本でも同じように、スポーツとしてきちんと確立しようとしていた宮入さん、この2人の損失は計り知れないものがありますが、残された我々はその意志をしっかりと受け継いで、次の世代に引き継げるよう、今一度気を引き締めたいと思うのでした。
JCSF 岡本堅史

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